一、二、全部

私のどこが好き?と聞かれて全部と答えることは僕はいけないと思う。だってそれはどこも好きじゃないって言っているのと同じだから。何かを好きである以上、何かを嫌いじゃなきゃいけない。僕たちはそうやって世界に釣り合いを取っているんだよ。バランスは一個じゃ保てない。

仮にその子のことが全部好きであるとしよう。じゃあ君はどうしてその子じゃなきゃだめだったんだい?どうせ今君の頭にちょっと好意がある女子、或いはあった女子が思い浮かんだだろう。少し意地悪なことを言うともしかしたら君はその子の方が好きかもしれないね。そうさ、人は何かを比較しなければ何も説明はできないんだ。神様を一体どうやって説明しろと言うんだ?できないだろう。しかし、好意のある女子が少しでも思い浮かんだ時点でそれは浮気だよ。え?考えただけで浮気になるかって?なるよ。君は今の想い人に向かって今想像したことを面と向かって言えるかい?その人のことを考えただけで体のことは考えていないから言えるって?やましいと思うからそうやって嘘をつくんだよね。

君なんかよりよっぽど、その子の胸が好きだと言っている子の方が健全だ。その方が全部好きだという回答をするよりしっかりその子を吟味している。顔でも足でもお腹でもなく胸だと回答している。もちろん、その子が性的特徴に対して大っぴらに好意を惹くことに苦手意識を持っていなければの話だけれどね。

じゃあ、それだって他の女の子の胸を想像して好きだと言っているかもしれないって?確かにそういう人間もいるだろう。世の中には胸を強調するようなポルノ写真が出回っていたり、街を歩けば胸の露出した格好をしてセックスアピールに励む女がいる。そういう下卑たものに晒された僕たちの目は、無意識に胸がどうあるべきかという理想にまみれていることだろう。その理想と比較してその子の胸が好きだというならばそれは先の全部好きと言う人間と変わらない。しかし、僕が言うのはそういう話ではない。それは既にその子の胸が好きではなく、単に胸が好きに話がすり替わっているからである。

例えば、大げさにものを言えば分かるのかしら、簡単に言えば、君がもし人生に絶望してビルから飛び降りたとして、着地点にその子の胸があってその弾力で助かったとしよう。そしてその後その子と進展があって付き合ったとする。つまり君はその子の胸がなければ生きてすらいなかったのだ。僕が今言いたいのは、その上でその子の胸が好きだと答えるのが健全だと言いたいのだ。胸とたとえるから話がややこしいのかしら、例えば君のあの言葉が僕を救った、君のあの時の行動に惚れた、君を一目見た時にドキッとした、だから君が好きなんだということなのである。つまり、君はその子のどこに思い入れがあるかどうかが重要なのだ。

だから、冒頭の質問をもう少し適切なものに直すとすれば、君を一目見た時にドキッとした、今は君にそうやって刺激を受けたために君のどの部分も好きになった、と言えばいいのである。まどろっこしいかもしれないが、今のような回答をするのと全部好きと答えるのとでは、僕はその人の人生が豊かになるかどうかが左右されると思っているのである。

芸術ってなんだろう。それは例えば白いキャンバスに黒い点を塗ることだ。白の中に赤があることでそれは「黒色」として成り立つ。黒い点であるからこそ人々はそれを「黒色」の絵と認識し、理解ができる。もしキャンバスを黒色で全部塗ってしまえば、誰が白いキャンバスに描かれた黒色の絵だと認識できるのだろうか。僕たちの価値観はいつしかそれが白いキャンバスだったことを忘れる。さも当たり前のように黒色に塗られたキャンバスを何も書かれていないただの紙と認識するだろう。

僕たちの頭の中が誰かによって満遍なく塗られてしまったら僕たちは価値観を植え付けられたことにすら気がつかない。そして、人は芸術を忘れていく。時折塗り忘れを見つけたら黒く塗ろうとする。そうして自分の精神が正常だと思い込もうとするのである。

恋愛は探究心から生まれるものである。恋い焦がれるから人は恋愛をする。その恋い焦がれる気持ちはまさに芸術である。君の元々あった価値観に波を立たせ、揺らがせた人間こそが恋い焦がれる人間だ。恋い焦がれる相手は、そういう理由で黒い点でなくてはならないのだ。黒い点が曖昧でぼやけた時、そしてキャンパスを塗りつぶしてしまった時、君の恋愛は終わりを迎えてしまう。君はその人を忘れてしまうのである。

この世の全てのことに意味があるとロマンティストは叫ぶ。しかし、それはある意味で全てのものに意味はないと言っているのと同じだ。確かに僕はこの世に意味のないものなんてないと思っているし、その考えは否定しない。でも、僕は全てに意味があるからといって、全てに分け隔てなく興味を持とうとしたってそれは結局意味がないと考えることと一緒だと言っているんだ。僕は自分には意味がないと思うことだって、とても大切なんじゃないかとそう言っているだけだ。つまり大事なのは、自分がなにに意味を見出さなきゃいけないのかということだ。僕らは取捨選択するべきである。一、二、全部と数えるのは幼稚園までで卒業するべきなのである。

選択するということはそのものずばり命を洗濯するということに他ならないと思う。この言葉の妙味こそに真実が見え隠れしているのではないか。みんながやっている、みんなが言っているからといってその雰囲気に流されてしまうのでは命はドロドロに汚れてしまう。

私のどこが好き?と聞かれた僕は顔を赤らめて、君が僕を選んでくれたところかなと答えた。

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小雪 について

「愛」の概念について探求している、某国立大学の学生 プラトン、アリストテレス、アウグスティヌス、ベルナール、トマス・アクィナス、スコトゥス、パスカル、キルケゴール等の様々な思想家、 フロイト、ユングといった心理学者、 ユダヤ教、キリスト教などの宗教について広く調べています。 最近では、自由意志の認識がもつ社会的影響など実証的な研究にも興味が出てきています。 長らく哲学を専攻していましたが、心理学に転向することを考えています。
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