灯の光が僕を照らす

「enlightenment」という言葉をあなたは知っているだろうか。
手持ちのスマートフォンで調べればおそらく「啓発」とか、「悟り」とか出てくるだろう。
では、「啓発」とはいったい何だろうか。同じく調べると、無理の人に教えを導き、物事を明らかにさせることだとかそんなことが書いてあるに違いない。

ところで、プラトンの『国家』に記されている内容の一つに「洞窟の比喩」と言うものがある。プラトンが自分の説である「イデア論」を説明するために用いた比喩である。
詳しくは手持ちのスマートフォンで調べてほしいが、内容は大雑把に言うとこうである。

地下にある囚人たちが暮らしていた。その囚人たちは手足が縛られていて外に出ることができないが、洞窟の上のほうに灯がともっていて、囚人たちはそれを観察しながら過ごしていた。
長い時間をかけてその灯が影を作っていることを導き出すと、囚人たちはその影こそが実体であるという結論を出したのである。

ある日、一人の囚人が縄をほどかれ、外に出るように促された。嫌々ながらも囚人が洞窟から抜けた瞬間、太陽の強烈な光に充てられて目が焼けるほど苦しい思いをした。
しかしだんだん目が慣れてきて、太陽の光を見ることができるようになると、囚人はたちまちすべての物体は太陽によって実体化していることが理解できた。おそらく囚人は洞窟の中の人間たちにも憐れみを覚えたことだろう。彼らはいまだに影こそが実体であると思い込んでいるのだから。

囚人はこのことを洞窟の中にいる囚人たちに教えてやろうと思った。しかし太陽で目が慣れてしまったせいで思うように影を見ることができなかった。それを見た囚人たちは彼のことを精神に異常をきたしたとあざ笑い、のけ者にしてしまった。
彼はもう二度と太陽の話をすることはなかった。

以上がプラトンの「洞窟の比喩」である。プラトンによれば「太陽」が「善のイデア」を表しているそうであるが、ぶっちゃけた話今の俺にはそんなことはどうでもいい。
先ほどの「enlightenment」の話に戻ると、この単語はあなたのお察しの通り、「light」の派生語である。直訳すると「光を当てること」とでもした方がいいのだろうか。関連があるかどうかはわからないが、先の比喩に登場した囚人が「太陽の光に当てられる」ことによって「啓蒙された」ことと不思議と一致する。

人は何かを発見した時に、得も言われぬ快感を覚えるときがある。心理学では「アハ体験」などと言われることがあるが、「アハ」なんて生易しいものではない。
およそ先の囚人が体験したように、太陽の光のような強烈な体験なのだ。例えばフォッサマグナを発見したE.ナウマン博士は、「いつも見ていた景色が、頭に雷に打たれたかのように違った景色に見える」と言ったそうだ。発見は自分の五感すら変えてしまう恐ろしい体験なのである。

おそらくあなたはそういった体験をしたことがないであろう。いつも同じ時間に起きて、同じ職場でルーティンワークをこなし、同じ時間に帰って寝る。毎日が退屈でしょうがないあなたは雷に打たれるような体験などできるはずがない。
ん?君はどうかって?そうだな、俺か。俺の話を聞いてくれるのか。まぁ、雷とまではいかないだろうが、蛍光灯くらいの明るさはあるんじゃないか?ごめんな、ふざけないで答える。

俺は夢を見る瞬間を夢に見たんだ。え?何を言っているかわからない?まぁ、そう焦らないでくれ。人間っていうのは寝る瞬間にどうなっているのか考えたことはあるか?
もちろん俺は考えたんだ。だっておかしいだろ、気が付いたら朝だなんて。まるで時間なんかなかったかのように夜が過ぎるんだ。俺は我慢ならなかった。時間があっという間に過ぎるなんてひどい仕打ちだよ。俺は何としてでも夜の時間を楽しみたかったのだ。

結果から言えば無理だった。そりゃそうだよな。寝るという行為自体が、意識を失くすことなのに、俺の願望ははっきり言って矛盾している。しかし、それ以上に稀有な体験をした。

プラトンの洞窟では囚人たちはたった一つの光で生活をしている。しかし、電気が普及したこの世の中でたった一つの光で暮らすのは難しい。昼は太陽が昇ってくるし、夜は電気のある場所に買い物をしに行かなければならない。都会に住んでいる人であれば、一日中明るいところで生活している人もいる。言うなればそこは「光の牢獄」である。

俺は「啓蒙する条件」に、光から断絶することだと考えた。つまり比喩の反対だということである。
俺はカーテンを閉めて、光の出る機器の電源を消し、ドアから光が漏れないように外の電気も消した。そして部屋を密閉し、寝床につくと、俺は素早く蛍光灯を消した。

普段なら少ない光でもって目が順応し、そこそこ暗くてもあたりがそこそこ見えるようになる。しかし、一閃の光も許さないその部屋では本当に何も見えなかった。
俺はこの特別な空間に気分が高揚していた。一体俺はどんな顔をしていたことだろう。しかし、自分の手すら見えないこの環境で、表情を確認することは不可能であることが明白だった。
次第に、自分がここに本当に存在しているのかさえ不安になった。今俺は本当にここにいるのだろうか。この暖かいぬくもりをくれる布団は何を根拠に存在しているといえるのだろうか。俺は確かに横たわっているがしかし、この感覚は本当に俺のものなのだろうか。俺が存在していた世界はこうも簡単に存在が揺らぐものだとは思っていなかったのである。

次第に意識が遠のいてきた。俺はこれから眠るのであろう。しかし、眠るとはいったいどういうことなのであろうか。今のこの状態が眠っていないと言えるのならば、これ以上何が失われるというのか。明かりを消してからどれくらいの時間がたったのだろう。そうか、時間はこうやって揺らいでいくものなのか。そうやってその世界のどれもが否定されていった。

しかし、その瞬間、俺の意識がいきなり顕在化した。世界には何も実体がないと思い始めたその時である。俺のやりたかったこと、楽しかった思い出、思い出したくもない恥ずかしかった黒歴史が次々と脳内に流れ込んでくるのである。いや、そのときは脳内だとは思わなかったと思う。まるでそこに存在しているかのように景色が映るのだ。
ただひたすらイメージは流れ続けた。俺はそれに対して何も疑問には思わなかった。俺はひたすら時間を行き来していた。過去のこと、未来のことが俺の頭の中に流れ続けた。この映像は、俺に関するすべてのことで、目の前に広がる景色はすべて俺に関するものだった。俺と世界が合一した。

俺は寝ていたのだろうか。いや、それは全くなかった。気が付いたら俺は電気をつけていたからだ。あたりはいつもと同じ部屋の景色のはずだった。しかし、やはり違って見えるのだ。そこにあるすべての俺の所持物が、俺のものではないような気がしたからだ。手や足でさえも俺の意識にまるで付属品であるかのように思えた。
しかし、時計を見れば時間は等間隔で過ぎているらしかった。ああそうか、さっきのが夢だったのかと確信した。俺は今まで現実にはいなかったのだとやっと理解することができた。俺は蛍光灯によって夢の世界から抜け出すことができたのだ。

そうだな、俺の発見は今目の前に見えていることが俺にとっての現実だったということだ。今パソコンに向かって文章を書いているが、これは紛れもなく現実だってことだ。パソコンは俺の目の前にあって、俺はパソコンの目の前にいる。それはゆるぎない真実だってことだ。俺は、「光を当て」られた。

長々と読んでくれてどうもありがとう。もちろんこの話は虚構だ。しかし、今俺があなたに文章を読んでもらっているという事実は紛れもなく現実だ。そして俺がこの話を書いたということも、虚構であるはずはない。俺はあなたとの、事実に即したただ存在するのみの会話に期待している。じゃあな。

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小雪 について

「愛」の概念について探求している、某国立大学の学生 プラトン、アリストテレス、アウグスティヌス、ベルナール、トマス・アクィナス、スコトゥス、パスカル、キルケゴール等の様々な思想家、 フロイト、ユングといった心理学者、 ユダヤ教、キリスト教などの宗教について広く調べています。 最近では、自由意志の認識がもつ社会的影響など実証的な研究にも興味が出てきています。 長らく哲学を専攻していましたが、心理学に転向することを考えています。
カテゴリー: 小論文・随筆 パーマリンク

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