勝者の慟哭

誰が勝者で、誰が敗者か、それはいったい何が決めるのだろうか。

人間にはそもそも勝ち負けという構造が生得的に備わっている。
何かを得るものがいれば、何かを失うものがいる。
そういった体験が、喜び、悲しみという感情を与えるのだ。

人間はしばしば、人間同士で対立する。
皮肉なことに、個人の自由を守ろうとすればするほど、その対立は増える。
誰もが等しく得、等しく失うことができればそれが一番いいのだが、残念ながら結果はもっと複雑で、いかに等しく分配しようとも、所得の差は広がってしまうのだ。

俺は、人類を愛した。
人類を愛するがゆえに愛した。
人類そのものが好きだった。
俺は、真の平等というものを欲した。

真の平等とはすなわち、皆が等しく絶対者の前に跪くことである。
「跪く」と大袈裟に書いたが、別に「理解される」でもいい。
俺は誰かを称賛するでもなく、蔑むこともしないと心に決めた。
俺は、皆を理解するのだ。

それにはまず、自分が絶対者にならなくてはいけない。
絶対者とはすなわち「神」であることと言い換えてもいいが、ここではその名前は不適当に思える。
「神」はある場所では慈愛に満ちた存在であるし、ある場所では畏怖の対象であるからだ。
そういう曖昧なものであっては人を等しく愛することはできない。
俺は「絶対者」でなくてはならないのだ。

そのためには、俺は「抽象的」でなくてはならない。
俺は何かの言葉によって説明されてはいけない。
俺は何の価値も持たず、ただここに存在するだけでなくてはならない。
絶対者とはそういうものだと考えている。

俺は「個人的」であってはいけない。
俺はあらゆる自分の価値を放棄しなければならない。
自分の価値を持つということはすなわち、価値に合わないものを作るということだ。
そうなれば、俺は絶対者として等しく人を愛することができなくなってしまう。

絶対者とはすなわち、球のようなものである。
一切の凹凸もなく、またあらゆる面に「面積」を作ることのない形だ。
俺を表す観念は球体になる。

俺はこうして、人類を愛した。
戦争も、平和も、貧富も皆平等に愛した。
俺の前では、すべては等しい価値を持っていた。
ただ俺の目の前に存在し、一切がなんの起伏もなくただ流れた。

俺はあらゆる煩悩も取り去ることができた。
皆が俺を指さして笑ったが、本当に些細なことだった。
俺はただここに存在し、人類を愛している。
人類が俺にひれ伏し、俺は人類に平等に愛を送ったのである。

ふと、俺は「何のために」人類を愛したのだろうかと考えた。

考えてしまった。

俺は何のために人類を愛したのだろうか。
人類は俺にひれ伏している。
俺は、言いようのない快感を覚えた。
俺は、勝ったのだ。

人類を愛することによって輪廻から抜け出した俺は、人類に勝ったのだ。
俺も結局、自分を一番愛していたというわけだ。

泣いた。

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小雪 について

「愛」の概念について探求している、某国立大学の学生 プラトン、アリストテレス、アウグスティヌス、ベルナール、トマス・アクィナス、スコトゥス、パスカル、キルケゴール等の様々な思想家、 フロイト、ユングといった心理学者、 ユダヤ教、キリスト教などの宗教について広く調べています。 最近では、自由意志の認識がもつ社会的影響など実証的な研究にも興味が出てきています。 長らく哲学を専攻していましたが、心理学に転向することを考えています。
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