どこからどこまでが、自分なんだろう。
時々ふとした瞬間に考えてしまう。
例えば自分の目の前にあるこの右手が本当に僕の右手なのか、あるいは本当に僕の右手であるならばどのような因果で僕の右手であり得るのか、またこれからも僕の右手であり続けてくれるのか。
深夜にやっている暴力的な映画で、右手が切り落とされる主人公の仲間を想像する。これまで何十年も共にした右手とたった一瞬で分かたれてしまうのを見ると、右手が今僕についているという方がなんとなく不思議なような感じがしてしまう。
僕は右手をグーにしたりぱーにしたりして、自分のいろんな右手を眺めていた。
そういえば、人間はあらゆるものでできている。骨だったり筋肉だったり、皮だったり。
人間の基本構造はあらゆる観点から説明できる。それだけ人間ていうのは複雑で一言では説明できない。
更にそういう生物学的な目線を除いても、人間はあらゆる成分の集合体だ。例えばオーラがある。例えば、おでことか、ほっぺとか、足とかを見ただけでその人が誰だかわかるときがあるだろう。その体の一部分はその人の所属で、その人個人の独特なオーラを纏っている。
また、人間の体は知識である。その人の体の隅から隅まで、体は思い通りに動く。だから、個人特有の動きが表れる。例えば頭をかく姿は個人個人で様々だ。一人として同じように頭をかくことはない。歩き方だって、その方法を少し見ただけで誰だかわかるくらいには違う。体全体が、その人それ自体の知識で埋め尽くされている。記憶も、しぐさも表情も、その人の持つ財産に等しい。
そうやって人間を構造的に解剖していけば、より一層人間の奥深さを知ることができる。人ひとりの人間の個性が、体を物質的なものから精神的なものプラスアルファで価値を高めてくれる。
そうであるからこそ、より目の前の右手が複雑な様相を呈している。この右手は、あらゆる深みが混ざってできてるのだ。はぁ、少し考えすぎてしまった。
一つ不思議なことがある。人は例えば皮がめくれてしまうなどしてけがした時に、皮一枚でつながっているこのめくれてしまったこの皮は果たして自分自身だと言えるのだろうか。
この前試したことがあって、一度はがしてしまったこの皮をもう一度けがした場所に貼ってみた。そうしたら、新聞とかティッシュとかはめっちゃ痛くて、けがのために開発されたバンドエイドだって慣れるまでかなり時間がかかったのに、自分の、自分に所属していたこの皮だけは全く痛くなかったのである。
そうか、そうやって自分自身というのは長い時間をかけて作られていくのだと思った。それはちょうど山のようだ。山も長い時間をかけて作られていく。少しの雨で土砂崩れするような山ではない。何億年前に埋められたような化石が、石油になっていくような山だ。
山だからこそ痛い。それは自分自身が何十年も積み上げてきたから痛い。土砂崩れた皮はいくら引き裂いてもいたくないけれど、自分自身がたくさん詰まったこの体を突き刺すのは痛い。
ホチキスを見つめながら、針を自分の指に当ててみた。数十年も蓄えていた血が少し噴き出てきた。
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https://twitter.com/3dai_yokai
妖怪三大囃「皮」「山」「ホチキス」
自分自身が山、読ませて頂きました。
すみません。よくわかりませんでした。(。-_-。)
人間について突き詰めて考えたらこう言う考えに至ったって事でしょうか。
稚拙で申し訳ありません。ただ、剥がれた皮を付けて痛くないというのは、その通りで。まぁ、そこを掘り下げて考えられるあたりがすごいなとは思います。単純でなんの不思議とも思わなかったので。
彼は、山だ、と気づいて何か得たのでしょうか。。
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