生と死のはざまに小林を思う

「死」とはいったい何であろう。

人は自分が生きていることを実感した時には、その終わりである「死」を必然的に考えるであろう。今私がここに生きているのであれば、死んだらどうなるのかというのは、好奇心の少ない人間でも少なからず興味の引くことである。
人は一回死んでしまったらもう生き返ることはできない。それは有史時代から刻々と受け継がれてきた常識の一つである(まぁ、いくつかの例外はあるがしかし、その復活もそれは私たちの「生」とは質が異なるものである)。それでも僕たちは、プレゼントの中身を探ろうとするように、宇宙の果てを知ろうとするように、私たちは生の向こう側を知ろうとしたがるものである。

ところで、僕は一人で田んぼのあぜ道を歩いていた。
僕はあることをしてきたその帰りなのだが、今は用事もなく寄り道をしている。この辺りは田んぼ以外本当に何もなく、晴れていたら空気もきれいでとても散歩に適した場所だといってもよかっただろう。しかし、今日は曇り空で辺りはどんよりしていて霧も深くなってきて、まだ午後四時だというのにもう夜なのではないかと思うくらいに暗い。
この田んぼに存在するのは、僕の孤独のみだった。

僕は自分のことが嫌いだ。
自分というのは何とも浅はかなものであろうか。自分というこの体は、別に望んでなったわけでもなく、そのくせ他と代替することができない。自分という存在はどこにいても付きまとってくるし、自分から逃避することさえできない。しかし、中途半端に自由が保障されているものだから、なにかあるときはどうしてか自分に責任が伴ってくる。
僕は小さいころから人に合わせることが癖で、自分を殺すことで集団に適応してきた。そんな僕がたまに自覚されると、いったい僕は何をしているのだろうかといやに思えてくるのだ。ちょうど今のような状況で。

あぜ道は少しぬかるんでいる。ぴちゃぴちゃと音を立てて土が僕の靴にまとわりつく。
嫌だ、このようなあぜ道は早く抜けてしまおう。そう思って辺りを見回してみても、霧が濃いせいか、大きな道を確認することはできない。この不快な道を、先の見えないこの状況で歩かなくてはいけないことに大きなため息をついた。どれくらい歩いただろうか。北も南も西も東も分からない。僕は、この世界との大きな隔たりを感じるようになり始めた。

ああ、生きるということはそういうことなのか。

歩くこと以外することのできない僕の頭には、哲学的思考が駆け巡っていた。僕の動作の一つ一つが自覚的になっていくにつれて、その行動の意味を無意識か意識的にか考えてしまう。
そうやって考えていると、この薄暗い空も、霧も、ぬかるんだあぜ道も僕にとってとても意味のあるものに思えてくる。そして、この僕の意識はなぜ存在するのか…。それは、「生」と通ずる、根本的な問いである。

腕時計は午後五時を指している。あぜ道を歩き始めてからもう一時間もたってしまったのか。
結構歩いたつもりだったが、まだ大通りに出ないらしい。しかし、まだかと思うと余計に途方に暮れてしまうから、僕はまた哲学を考えようとした。生とは何か、生とは何か…因果なもので、考えようと意識すればするほど、湿った土の音が僕の思考に邪魔をする。
辛い時間を過ごしているうちに、少し目の前に森が見えてきた。大通りではなく森か。頭がくらくらしてきた。そういえば、僕はどうしてこんなあぜ道を歩いているんだ。すると、先ほどまで忘れていた小林さんのことが頭に浮かんだ。

僕は、苗字しか思い出すことのできないその女に振られてしまった。
彼女はとてもきれいで、自分の仕事を生き生きとしてこなすことができる。僕はそんな彼女に憧れていた。
彼女は動物が好きで、今日は僕が彼女を動物園に誘ったのだった。その帰り際に、僕は彼女に思いのたけを伝えたら、彼女は少し考えてから、「森くん、きっとあなたは私を幸せにすることはできないわ」と言って去っていった。

振られた原因はわかっている。彼女は本当に「生」そのものだった。しかし、僕は彼女のことを何も分かっていなかった。いや、分かろうとはしていなかった。このあぜ道を歩いてきた今ならわかる。僕は彼女の生き生きとしたその性格を心のどこかで避けていたらしい。
彼女の名前を知ろうともしなかったこの事実が、それを如実に証明していた。

僕は目の前の森をぼーっと見つめながら、自分の人生が何ともむなしいことを悟ってしまった。そういえば、ラテン語でmoriと言えば、「死ぬこと」と訳されるのだったっけ。確かに、樹海で連想されるのは自殺であるし、神社で神聖な空間を作り出すのは森だ。裏山の森には、死体が埋まっているなんていつも噂が立つ。人間は、森に対して、死のイメージを持っている。あれ?僕の名前も「森」だな、そういえば。はは、木が幾分か少ない「小林」さんにも振られるわけだ。僕たちは最初から正反対の人間だったんだ。

「生」に終わりがあるのなら、僕の人生の終わりはこの森である。この森は、いくつのあぜ道と通じているのだろうか。ただ広い田んぼに突然現れたこの森は、人生のごみ箱である。この森に、一体いくつの死体が埋まっているのだろうか。
現前に広がるこの森が、僕を誘惑してくる。僕はこのままこの森の土になってしまってもいいのかもしれない。僕は、森へと一歩を踏み出した。死とはいったい何なのだろうか、ということに僕は以前からずっと興味があったのだ。

興味…、そういえば、小林さんの名前はいったい何だったのだろう。「まや」とか、「みき」とかだろうか。いや、きれいな彼女のことだから、「さやか」かもしれない。嫌でもあの顔は、「しおり」じゃないかな。
そうやって僕は、彼女の名前を何の証拠もないところに考え始めた。いつの間にか、僕の歩みは止まっていた。さっきまで「死」で頭がいっぱいだった僕は、もう今は小林さんの名前に対しての好奇心に変わっている。僕は彼女に名前を聞くまで死ぬことはできない。そしてもう一回告白してみよう。今度は彼女の名前をしっかりと呼んで。

そう思うと自然とまた、僕は森を避けながらあぜ道を歩き始めた。ぬかるんだ土が靴にまとわりついても、気にせずに前に進んだ。そういえば、霧は少し晴れてきたようだ。腕時計を見ると午後六時、僕は、すっかり暗くなる前に早く帰ろうと背筋を伸ばして大通りを目指した。

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妖怪三大囃 https://twitter.com/3dai_yokai
「小林」「ゴミ箱」「裏山」

 

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小雪 について

「愛」の概念について探求している、某国立大学の学生 プラトン、アリストテレス、アウグスティヌス、ベルナール、トマス・アクィナス、スコトゥス、パスカル、キルケゴール等の様々な思想家、 フロイト、ユングといった心理学者、 ユダヤ教、キリスト教などの宗教について広く調べています。 最近では、自由意志の認識がもつ社会的影響など実証的な研究にも興味が出てきています。 長らく哲学を専攻していましたが、心理学に転向することを考えています。
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